神仏祭祀と調律
神仏を祭り、先祖に手を合わせる営みの真の本質とは、外なる存在に何かを乞い願うことにあらず。
それは、己という小さき存在の波長を、大宇宙と天地自然の理へと完全に一致させる調律の営みなり。
神仏の御前に立ち、祭壇や神棚に向き合うとは、外にいる別の神を拝むことにはあらず。
神鏡の前に立つがごとく、己の奥底に鎮座する内なる神性、仏性と真正面から対峙することなり。
頭を垂れ、手を合わせるその一瞬において、人は世俗の我欲や雑念を削ぎ落とし、本来の澄み切った己の姿へと立ち返らん。
ゆえに、祭祀において何かを願う必要は一切なし。
足りぬものを埋めようとする願いや、災いを避けようとする恐れは、己の波長を濁らせるのみ。
ただ天地を生かす大いなる命の働きと、いまここに生かされていることへの絶対なる感謝を捧げよ。
そして、己が神意に沿って己の場を生き切るという不動の誓いを立てよ。
人が澄み切った心で祈りを捧げるとき、己の器は大宇宙の呼吸と完全に重なり合う。
神仏と己、先祖と己との間にあった隔たりは消え去り、すべてが一つの大いなる命の連なりとして完全に調和するのだ。
形ある祭祀とは、天地自然の理に己の波長を合わせ、内なる神を曇りなく輝かせ続けるための尊き調律なり。
この本質を違えぬとき、日々の祈りは単なる儀礼を超え、新しき世の調和を己の身をもって地上に降ろす、大いなる神事となるものなり。




