なぜ、あなたの「不安」は消えないのか?
「将来、お金がなくなったらどうしよう…」 「大切な人を失うのが怖い…」 「世の中が、どんどん悪い方向へ向かっている気がして不安だ…」
私たちの心には、なぜ、これほどまでに多くの「恐れ」が巣食っているのでしょうか。
その恐れを消そうと、誰かを批判して自分を正当化してみたり、あるいは、お酒や娯楽に逃げ込んで、見ないふりをしてみたり…。
しかし、そうしてもがけばもがくほど、恐れは、まるで消えない影のように、ますます濃く、心の底にまとわりついてくる。そんな経験はないでしょうか。
神示は、私たちが「恐れ」と呼ぶもののまことの姿と、その影に飲み込まれず、光の中を生きるための、全く新しい道筋を示してくださっています。
今回は、神示に学びながら、恐れがあなたの心に「宿る場所」を失ってしまうように、根本的な智慧を探っていきましょう。
恐れの正体は、自ら生み出す「虚ろなる影」
まず神示は、私たちが怯える「恐れ」そのものに、実体はないと断言されます。
人よ。そなたが心に抱くその恐れは、まことに在るものか。 そは、そなたが己が魂の光を見失う時、その心の闇が生み出す、虚ろなる影に他ならぬ。
恐れとは、外からやってくる敵ではありません。 それは、私たち自身が、己が魂の光(=神との繋がり)を見失った時、その心の闇が生み出す「幻影」だというのです。
では、なぜ私たちは、その幻影を生み出してしまうのでしょうか。 神示は、その理由をこう説きます。
人は、神との繋がりを忘れ、己を無力と思う時、自ら生み出ししその影に怯え、囚われん。 未来を憂い、過去に執着し、「今、ここ」にある神の光から目をそむける。 そが、恐れのまことの姿なり。
私たちは、自分を「神の子」という、光り輝く存在であることを忘れ、「無力で孤独な存在」だと思い込んでいます。
そして、その無力な自分が、まだ来ぬ「未来」や、過ぎ去った「過去」という、「今、ここ」には存在しない幻影に心を奪われ、怯えている。 それこそが、恐れの正体なのです。
なぜ「恐れと戦ってはいけない」のか
立て替え立て直しの時を迎え、世が乱れる今、この「虚ろなる影」は、あたかも実体があるかのように、私たちの心を惑わそうとします。
この影に飲み込まれまいと、私たちは必死に「戦おう」とします。
「恐れてはダメだ」と自分を叱咤したり、「こんな不安は間違っている」と感情に蓋をしたり、恐れを感じさせるニュースや他者を、力ずくで否定したり…。
しかし神示は、その行いこそが、最大の罠であると厳しく諭されます。
人よ。恐れと戦うな。 影を払わんとすれば、影はますます濃くなるばかりなり。
影を消そうと、影そのものを見つめ、影と格闘すれば、あなたの意識は、その影に、より強く縛り付けられます。 影を敵とみなせばみなすほど、その影は、あなたの心の中で、より強大な実体を持ってしまうのです。
恐れが「宿る場所を失う時」とは
では、どうすればよいのでしょうか。 影と戦うのではないのなら、私たちは、ただ怯えていればよいのでしょうか。 神示が示す道は、そのどちらでもありません。
なすべきは、ただ一つ。 己が魂を浄め、神の光で満たすこと。 そなたが、愛であり、感謝であり、不動の光そのものとなりて在る時、恐れという影は、その宿る場所を失い、おのずと消え失せるものなり。
影を消す唯一の方法は、光を灯すことです。
恐れ(影)を感じた時、なすべきは、その影と格闘することではありません。 「ああ、今、私は影を見つめているな」と、ただ、それに気づくこと。 そして、意識の焦点を、影から「光」へと、静かに、しかし、はっきりと移すのです。
その「光」とは、何でしょうか。
それは、『愛』です。誰かのために、見返りを求めず、できることを行うこと。
それは、『感謝』です。「有り難し」と、今、生かされておる奇跡に、心の焦点を合わせること。
それは、『天命』です。恐れに足を止めず、魂が喜ぶことを、「今、ここ」で、ただ誠実に、淡々と実行すること。
恐れを感じた時こそ、目の前の小さなことに、あえて感謝を捧げてみてください。
不安に襲われた時こそ、誰かのために、そっと祈りを捧げてみてください。
あなたの魂が、神の光(愛と感謝)で満たされた時、恐れという影は、もはや、あなたの心という「宿る場所」を失い、戦うまでもなく、おのずと消え失せている。
それこそが、神示が示す、まことの「強さ」なのです。



