栗を主食とした豊かな暮らしと、稲作がもたらした光と影
想像を超える大地の恵み
初代アマカミ、クニトコタチが示した民のための理念は、後の世にも受け継がれ、この国の文化は少しずつ発展していきました。では、その当時の日本人の暮らし、特に食生活はどのようなものだったのでしょうか。
三内丸山遺跡などの発掘により、縄文時代のイメージは大きく変わりました。特に食生活は、私たちが想像するよりも遥かに豊かなものだったことが分かっています。
森や野原には、主食であった栗をはじめ、クルミ、ドングリなどの木の実、ヤマモモやグミなどの果実が溢れていました。山に入ればヤマイモ、サンショウ、ノビル、タラの芽、ウド、ワラビ、ゼンマイ、ユリの根など、季節の恵みが豊富に採れたのです。
さらに、単に自生している植物を採るだけでなく、当時日本には自生していなかったリョクトウ、ヒョウタン、シソ、エゴマなどを、簡単な方法で栽培もしていたようです。
海と川の幸、そして狩りの文化
海に近い場所ではマグロ、マダイ、クロダイ、スズキといった大魚から、タコ、ウニまで食卓に並びました。貝塚からは実に三百五十種類もの貝が発見されています。川ではフナやコイなどの淡水魚を、釣り道具やモリを使って獲っていました。
驚くべきことに、この時代すでにフグの毒を抜く方法も考え出され、食されていたようです。陸ではイノシシ、シカ、クマなどの狩りも行われ、その際には犬も良き相棒として使われていました。
土器は、木の実のアク抜きや煮炊き、焼き物に使われるだけでなく、パンを焼くようなものや、主食である栗を貯蔵するためのものまでありました。人々は自然と医食同genを実践し、農薬や添加物とは無縁の、新鮮な恵みを享受していました。それはある意味、非常に優雅な食生活だったと言えるでしょう。
稲作がもたらした光と影
やがて、この豊かな暮らしの中に稲栽培がもたらされます。それは人々を飢えの不安から解放するという、大きな光をもたらしました。
しかし同時に、それまでは存在しなかった感情を持つきっかけにもなったのです。
稲作が始まる以前、人々はおおらかに、ゆったりと暮らしていました。栗の収穫期や家を建てる時に皆で力を合わせればよく、争いのない気楽な生活だったのです。
しかし、稲が主食となると、そうはいきません。米作りには多くの手間と計画性が必要となり、人々の「自立」が求められるようになりました。この稲作と米食の広がりが、社会の在り方そのものを、根本から変えていくことになるのです。



