いつでも手は差し伸べられている
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立て替え立て直しの時代が進むにつれ、先の見えない状況に不安を感じたり、次々と訪れる試練に「自分は神様から見捨てられたのではないか」と孤独を感じたりしている方も、いらっしゃるかもしれません。 しかし、神示は、決してそうではないと、力強く断言します。
立て替え立て直しが進み、人の世に混沌と試練満つる今、天より、地より、そして己が魂の奥底より、常に救いの御手は差し伸べられおる。 なれど、多くの者はそに気づかぬ。
今回は、常に私たちに向けられている「神の救いの御手」の正体と、なぜそれに気づけないのか、そして、どうすればその手を固く掴むことができるのかについて、読み解いていきましょう。
救いの御手の、様々な姿
神様からの「救いの御手」とは、どのような形で現れるのでしょうか。それは、必ずしも奇跡のような、分かりやすい出来事とは限りません。
差し伸べらるる御手とは、大元なる神の愛そのもの、宇宙の慈悲の現れなり。 時にそは厳しき警告として、時にそは苦難の中の微かなる光明として、時にそは隣人の優しさとして、時にそは内なる声、魂の導きとして顕となる。
病気や人間関係のトラブルといった「厳しき警告」。
絶望の淵でふと目にした、美しい空や道端の花といった「微かなる光明」。
困っている時にかけられた「隣人の優しさ」。 そして、「何か違う」「こちらへ進むべきだ」と感じる「内なる声(直感)」。
これら全てが、神が決してあなたを見捨てず、常に成長と浄化への機会を与えてくれている、救いの御手の現れなのです。
なぜ、差し伸べられた手が見えないのか
ではなぜ、これほど多くの救いのサインがありながら、私たちはそれを見過ごしてしまうのでしょうか。神示は、その原因が、私たち自身の心の中にあると指摘します。
なぜ人はこの御手を見過ごすか。我欲に眼曇り、恐れに心縛られ、古き価値観に執着するが故なり。 己の非を認めず、他を責め、邪気に魂を覆わるれば、救いの光は見えぬ。
自分さえ良ければいいという「我欲」。未来への「恐れ」。古い価値観への「執着」。
そして、自分の非を認めずに、他人や環境のせいにする心。こうした邪気が、私たちの魂の眼を曇らせ、差し伸べられている救いの光を見えなくしてしまっているのです。
神示は、「絶望は、差し伸べられし手を自ら振り払う行いなり」とまで断言しています。
神の御手を掴むための「覚悟」
では、どうすれば、その御手をはっきりと認識し、掴み取ることができるのでしょうか。 神示は、そのためには、まず自らの心を整える「覚悟」が必要だと説きます。
その御手を掴むには、まず謙虚に己が未熟さを認めること。心を浄め、魂を磨き、神への信頼を取り戻すこと。 過去の過ちを許し、感謝の念を抱き、与えられし試練をも成長の糧となす覚悟を持つことなり。
自分は完璧ではないと認める「謙虚さ」。心を浄めようと努める「素直さ」。何があっても神は自分を見捨てないと信じる「信頼」。
そして、どんな試練も自分を成長させてくれる恵みなのだと受け入れる「感謝と覚悟」。 この清められた心の状態になって初めて、私たちは神の御手を力強く握り返すことができるのです。
救いの御手は、いつでも、誰にでも、平等に差し伸べられています。 恐れや我欲を捨て、清らかな心で天を仰いでみてください。必ずそこに、あなたを導く光が見つかるはずです。
その手を固く掴み、希望を胸に、この大転換の時代を力強く歩んでまいりましょう。



