なぜ「我の循環」を抜け出し、「愛の循環」に身を委ねるべきなのか
私たちは皆、豊かさを求めています。 しかし、どれだけ懸命に働き、蓄えても、心のどこかで「まだ足りない」「失うかもしれない」という漠然とした欠乏感が消えないのはなぜでしょうか。
私たちは、豊かさを所有物の量で測ろうとします。
しかし神示は、その「足りない」という感覚こそが、豊かさから自らを遠ざけている幻影なのだと指摘します。
そは、豊かさにあらず。足りぬという、分離の心が生みし幻影なり。
神示は、私たちが抱える欠乏感の正体を、分離の心が生み出した幻影であると断じています。
分離の心とは、自分が神の愛の恵みから切り離されている、という思い込みです。
まことの豊かさとは「循環」そのもの
では、私たちが切り離されていると誤解している、豊かさの本体とは何でしょうか。
神示は、まことの豊かさとは所有できるモノではなく、絶えず流れる循環そのものであると説きます。
まことの豊かさとは、この神の愛の、尽きることなき流れそのもの。 そは、与え、与えられ、分かち合う万物の循環に他ならぬ。
この世の万物、森羅万象すべてが神の愛の顕れであり、その愛は尽きることなく流れ、循環しています。
与え、与えられ、分かち合う。
この愛の循環の中にいること、その流れと一体であることこそが、まことの豊かさの姿なのです。
「恐れ」が流れを堰き止め、幻影を生む
では、なぜ私たちは足りないという幻影を見てしまうのか。
神示は、私たちが自らその流れを堰き止めているからだと教えます。
なれど人は、この流れを堰き止め、恐れが、己がものと蓄えることを、豊かさと誤り、我の循環を生み出さん
恐れこそが、分離の心が用いる最大の道具です。
流れが止まったらどうしよう、自分の分がなくなるかもしれないという恐れが、私たちに愛の循環を信頼させず、流れを堰き止めて己がものと蓄えるという我の循環へと向かわせるのです。
しかし、それは自らダムを築いて川の流れを止め、川底が乾いていくのを見て水が足りないと嘆いているようなものです。
我の循環とは、豊かさから自らを切り離す行為そのものなのです。
神示は、今こそ立て替え立て直しの時であり、それは我の循環を愛の循環に正す大いなる禊であると告げています。
この禊とは、心の穢れ、すなわち恐れと分離の心を手放すことに他なりません。
私たちがすべきことは、蓄えることへの執着を捨て、再び自らを神の愛の尽きることなき流れに接続することです。
豊かさを己のものとせき止めず、神の愛の尽きることなき流れの中にある時、真の豊かさが、そなたを通じて、この地上に余すことなく現れん。
豊かさとは手に入れるものではなく、通過させるものです。
自分は神の愛(豊かさ)がこの世に現れるための通路であると自覚すること。
恐れを手放し、感謝と共に与え、喜びと共に受け取る。
そうして愛の循環に身を委ねた時、私たちは足りないという幻影から解放され、自らを通じて豊かさが無限に現れる様を体験するのです。
神示は最後にこう結んでいます。
真の豊かさを知るものが、新たな世を生み出さんとす。
分離の幻影から目覚め、豊かさの循環の真理を知る者こそが、恐れのない新しき世を創り出す力となるのです。


