神意と我意の見極め
人が「これを為さん」と固く定める心、その意志の源は二つなり。
一つは「我」より発する渇望。 もう一つは、内なる神より湧き上がる御心。
その二つは、形は似て非なるもの。
その見極めこそが、立て替え立て直しの世を歩む鍵とならん。
「我」の物差しより生ずる意志は、常に「恐れ」を糧とす。
認められんとする焦り、足りぬという欠乏、他者に勝らんとする競い。
その行いは、一見、世を良くする姿と見ゆるも、その根には「我」の力を誇示せんとする心が潜まん。
そは、神の産霊の循環より外れた、苦しみの道なり。
まことの神意とは、神にすべてを委ねし時、静かに湧き上がる衝動なり。
そは、人の世の損得や評価を超え、ただ為さずにはおれぬ、魂の静かなる喜び。
「我」が消え、神の循環と一つとなりし時、内なる神が「今ここ」に為さんとする御業そのもの。
故に、己が心の源を深く問え。 その意志は、恐れより発するか、神の愛より発するか。
他者を裁き、「我」を立てるものか。 己が持ち場を清め、ただ誠を尽くすものか。
結果を求め、力む心は「我意」なり。 結果を神に委ね、ただ「今」の本分を尽くすことに魂が静かに喜ぶならば、そは神意なり。
「我」の声を鎮め、内なる神の声を聴け。
神意に生きる者の行いは、すべてが神の御業の顕れとなり、新しき世の光とならん。




