アマカミの家系について
ミナカヌシ(はじめての人間)
↓
クニトコタチ(日本を建国した初代アマカミ)
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クニトコタチの八人の皇子(トホカミエヒタメ)
ヱ ヲウミ
ヒ 不明
タ 東北地方 ヒタカミと呼ばれるクニ
メ 不明
ト 富士山南麓
ホ 不明
カ 中国という説がある
ミ 不明
長子であるヱノミコトがヲウミで二代目アマカミとなりましたが、ヱノミコト亡き後にトノミコトが二代目アマカミを継ぐという形になり、クニサッサを名乗りました。
この兄弟が合わせて二代目アマカミという事で、ヱト(干支)という言葉ができたと言われています。
※トホカミエヒタメは神様の最高峰の祓い言葉とされていますが、これは八方を表しています。
ヱが長子ですが、エネルギーの強い南を意味するトからはじまるようになっています。
三代目アマカミはトヨクンヌ 当時の要人としてトヨクンヌの弟ウケモチ
四代目アマカミ・ウビチニの時にはじめて結婚制度ができて、スビチニと結婚しました。
※アマカミ 古代の天皇
※クニサッサ 国の指導者
神話の真実に迫る・その14
三代アマカミ、トヨクンヌは朝廷と人口が増えた国民の間がうまく成立していくようカミ、オミ、タミの三階級に、分けられました。
アマカミと国民の間に取次のお役割の方ができただけで、ヲミの指導者はアマカミであるという理解しやすい構成ですが、ヲミは我は優位であるとタミに知らしめるため、大きな、りっぱな祭殿を競って建てたりしました。
これまでアマカミやクニカミの上にも下にも階級はありませんでしたが、ここで順位がついたことで、アマカミはヲミに何度も権威を振りかざしてはいけないと指導しましたが、それでも人は優位に立ちたいと思ってしまうものなのですね。
そんな中少しずつお米が栽培されるようにはなりましたが、なかなかうまくいきませんでした。
トヨクンヌの弟であるウケモチは懸命に努力され。熱心に稲作に励まれた結果、稲作は成功し(多分陸稲だと思われます。)
収穫祭では、ユフと言う木の皮を紡いで織った布をカ、シ、キ(赤、白、黄)に染めたヌサでアメナカヌシ、アメミヲヤ(絶対神のこと。この神様の吐く息で宇宙はできたと言われています。神話の真実に迫るでは偉大なる御意志、スの神様、大元の神などの表現をつかわせていただいています。)をお祀りし、お米を精米し、お粥と重湯にしてお供えされました。
お粥、重湯がそのころの一番のぜいたくであり貴重なものだったのです。
しかしお米は手もかかりかつ陸米は気候の影響を受けやすく、豊作になれば、主食の確保ができることはわかっていてもこれまで、自由に、狩りし、食糧を持ち寄り、ある意味自由な生活をしていたタミにとっては、稲作の文化が浸透するには大変時間がかかりました。
神話の真実に迫る・その15
三代目アマカミの弟であるウケモチの働きで稲作は広がり、生活も少しずつ向上してきました。
これまでのような、持ち寄り社会は通用しなくなり、人の自立が求められるようになりました。
当然一生懸命努力して働く人と怠ける人とで生活の差も大きくなってきました。
それまで結婚の制度もなく、郡婚のようなものでしたから当然父親が誰か分からないなどということは、当たり前にあったと思います。
しかし生活がある程度落ち着いてくると、その状態に疑問を持つ人も増えてきたのです。人々は変革を求めていました。
四代目アマカミ、ウビチニの時代から、男と女が助け合い生きるために、一夫一婦制が定められました。
神話では福井県武生市で木の実を持って二人の御子が誕生されました。
その実を埋めたところ、三月三日に桃の花が咲いたというロマンチックなお話もありますが、実際桃の種は縄文時代の遺跡から発見されていますので、桃は当時から食されてもいたでしょうし、古代人も花を楽しんでいたのではないでしょうか。
四代目アマカミ、ウビチニはスビチニと日野山(ヒナルタケ)で、トツギの儀を行いました。
たまたま雀が米粒を竹におとしそこに水が溜まり舐めると美味でした。
発酵してお酒ができていたのです。日本の始めてのお酒がトツギの儀に使用され、赤土や木を燃やした後の炭の黒や灰や石を粉にした白を使い、お化粧も施されていたでしょう。
そのころは既に繊維を染める技術もありましたし、蚕から絹もすでにあったかもしれません。
三月三日のトツギの儀は民の間にも広がりました。
現在ではひな祭りとして、女の子のお祝いの日になっていますが、ウビチニ、スビチニ結婚式の儀がその始まりでした。
もちろん旧暦であったと思われますが、どのようにして日付を定めていたのでしょうか。